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2012年10月06日

二千年の昔に・・

 
 

Brett Jordan
 



 
人生のさまざま経験に際して、

仏神と出会うための方法とは、

いったいどういうものでしょうか。

「聖書」のなかには、

この方法論が

明確にうたわれているところがあります。

それは「山上の垂訓」

といわれている部分です。

イエスははっきりと、

こう言っています。

「心清き者は幸いである。 汝らは神を見るであろう」

このイエスの端的な言葉、

これがすべてです。

実に二千年の昔に

イスラエルの地で

イエス・キリストが

すでに教えているとおりなのです。

いま、世の中の多くの人びとは、

自分の人生観のままに

生きていますが、

その人生観のなかに、

「心清く生きよう」

という思いがある人は

いったいどれだけいるでしょうか。

私は、

「反省をして心の曇りを取り除いたならば、天上界の光がさんさんと差し込んできて、四次元以降の世界と同通し、守護、指導霊とも話ができるようになる」

ということを説いています。

心を清くするためには、

まず、自分の

間違った思いを

修正していくことではないでしょうか。

仏神の喜ばないような

思いを持った自分であるならば、

それを反省することではないでしょうか。

また、

間違った行いをしたときには、

それを深く詫び、

懺悔することではないでしょうか。

私はみなさんに、

「ただ心清くあれ。心をますます純化していけ。その途中において、何らかの神秘体験を得るであろう。仏神の存在を実感するような体験を得るであろう。大いなる奇跡を感じ取ることもあるであろう」

と言いたいのです。





『幸福の原点』
 第四章 信仰の原点
 P120より 

 



  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 12:13Comments(0)仏法真理

2012年10月05日

貧乏という名の・・

 
 

onigiri-kun






苦難や困難、

失敗、挫折というものは、

世間では悪いことの

象徴のように言われていますが、

必ずしもそうとは

言い切れない面もあります。

「失敗のなかに成功の因があり、また、悲しみのなかに喜びの種がある」

という、ものの見方が

非常に大事だと思います。

世の中を非常に単純に、

二元論的に見る人は、

「神、仏が存在するなら、世の中には、なぜ不幸があるのだろうか。なぜ辛酸をなめるような経験があるのだろうか。なぜ死というものに出会う悲しみがあるのだろうか。なぜ別離という悲しみがあるのだろうか。なぜ貧乏という名の苦しみがあるのだろうか」

ということを感じます。

しかし、

そのような苦しみや悲しみは、

単なる苦しみのための苦しみであったり、

悲しみのための悲しみであったり

することはありません。

苦しみや悲しみと見えるものは、

実は、姿を変えた、

仏神の大いなる愛であることが多いのです。

いろいろな試練と見えるもの、

砥石と見えるもののなかに、

実は、仏神との出会いがあるのです。
 
人間を仏神のほうへと

深く深く向き直らせる

契機となっているのです。
 
 
 


『幸福の原点』
 第四章 信仰の原点
 P116より
 
 

  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 19:28Comments(0)仏法真理

2012年10月04日

肉体的なハンディを・・

 
 

messycupcakes






人間の真実の価値は、

その人に与えられた物の量や

世間の評価にあるのではなくて、

その人が人生の途上で発見した

真理の質にあるのです。

その深さにあるのです。

その光の強さにあるのです。

したがって、

自分がどのような経験をしたか、

どのような環境のなかに

置かれたかということは、

それほど大きなことではないのです。

そこにおいて、

その時点において、

自分がどれだけの光を

発揮したかが問題なのです。

「自分はこんな不幸のなかにある」

「自分はこんな肉体的なハンディを背負っている」

「自分はこんなひどい環境のなかで育ってきた」

と言いたい人もいるでしょう。

では、

そういう条件下にあって、

あなたはどれだけ

神の子として光り輝いたか。

それをこそ、

問われているのです。

人生は、

暗闇が濃く見えるようなときもありますが、

闇が濃ければ濃いほど、

光もまた強く見えるという

真実があるのです。

自分の闇が濃いと思うならば、

その濃い闇のなかにこそ、

新たな人生のランプを、

自分の希望の光を、

自分の悟りの光を

灯そうと考えていくべきです。
 




『幸福の原点』
 第2章 与える愛について
 P54 
 


 

  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 20:06Comments(0)仏法真理

2012年10月03日

裸の自分と・・

 
 


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人間は

人生のどこかで必ず、

自分自身の性(さが)、

自分自身のカルマ、

自分自身の本質的な問題というものと、

対決するようになっているのです。

それが二十代に来るか、

三十代に来るか、

五十代に来るかは

分かりません。

それはその人自身の問題ですが、

必ず、その人の

今世の人生にとって

課題となっているものと

直面することになるのです。

それは、

あるときは、

病気という

課題であることもあります。

仕事の失敗、挫折

という課題であることもあります。

あるときには、

肉親と死別する

ということであるかもしれません。

離婚ということであるかもしれません。

いろいろなことがあるでしょう。

しかし、

その人の魂の修行として

起こるべきことは、

やがて必ず起こるようになっています。

そのときに、

裸の自分というものを

嫌というほど

見せつけられるのです。

苦しみのなかに、

実は人生の砥石があるのです。

悲しみのなかに、

他者への愛が

芽生えるきっかけがあるのです。

人生には

いろいろな事件がありますが、

そこにおおいなる

神の巧妙な仕組みがあるのです。





『幸福の原点』
 第2章 与える愛について
 P51より
 
 


   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 21:26Comments(0)仏法真理

2012年10月02日

だれにも愛されなかった・・



 
 

Rudolf Getel


 


自分の人生を振り返って、

不平不満ばかりがこみ上げてくる人は、

「ゼロからスタートした」

という観点を

いま一度思い出すことです。

そこに原点回帰して、

自分を見つめてみることです。

そして、「ゼロからスタートしたわりには、いろいろなことをやってきたではないか。いろいろな人に恵まれてきたではないか」

ということが分かるようでなければ、

ほんとうではありません。

「自分はとにかく人から悪く言われてきた。だれからも優しくされたなかった」

と言う人は、

目にうろこがかかっている人です。

「これまで生きてきて、自分はだれの好意も受けなかった。だれにも愛されなかった」

と思う人は、

心のレンズがゆがんでいるのです。

心のレンズのゆがみを直して見たときには、

そのようなことは

絶対にないのです。

多くの人の恩恵を受けているのです。

多くの人に愛されてきたのです。

直接的にであれ、

間接的にであれ、

それは事実です。

生きていること自体が

大いなる恩恵を受けているということに

気づかなければいけないのです。




『幸福の原点』
 第2章 与える愛について
 P48より
 
 

  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 20:26Comments(0)仏法真理

2012年10月01日

頭から離れない・・


 
 

loco's photos
 





他人との上下の感覚だけで

物事を考え始めると、

人生は

苦しみの面が多くなっていきます。

みなさんのなかには、

自分が持っていないようなものを持っている人、

自分にはないような

環境のなかで生きている人を見たとき、

心穏やかでない人もいるでしょう。

しかし、

そういう人は、

まだ本物の自分というものと

巡り会っていないのです。

「他人というものがどうしても頭から離れないときは、まだ自分の本質に気づいていない。」

ということを知らなければなりません。

結局、「世の中の人が素晴らしく見えること、自分以外の人が素晴らしく見えることが、自分を惨めにする」

という境地は、

まだまだ本物の自分というものに

ぶつかっていないということなのです。

本物の自分というものに

出会ったならば、

多くの人が素晴らしく見えてきます。

素晴らしく見えることの喜びを感じます。

そこに自分の魂の飛躍を感じます。
 




『幸福の原点』
 第2章 与える愛について
 P46より

 
 

 

  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 22:01Comments(0)仏法真理