2012年06月10日
「悲劇の主人公」からの脱却 ③




結局、日を再び昇らせるための方法は、
夜るというものをあまりつかみすぎないことです。「
夜は去っていくものだ」
ということを知らなくてはなりません。
すなわち、自分を憐れむ気持ちと早く訣別しなければいけないのです。
「自分も素晴らしい仏の子なのだ」
という自覚を持ち、その自覚に支えられて生きていくこと、
とにかく前に進んでいくことが大切です。
自己憐憫に浸かっている人、悲劇の主人公にならやすい人には、
悲劇に近い環境が多く出ることも事実です。
また、自己卑下をする人には、悪口が与えられるのです。
したがって、自分をそう弱く見せないことが大事です。
そして、決して自己憐憫はせず、たんたんと自分の王道を歩んでいくことです。
ここに、日がまた昇っていくための秘訣があるのです。
ザ・伝道月刊誌
大川隆法
2012年06月08日
「悲劇の主人公」からの脱却 ②




病気でも、それ以外の問題でも、悪いほうにばかり考え、
不安なほうにばかり見ていく人がいます、
そうした方向は、どこかで断ち切らなければいけません。
「自分は憐れである。かわいそである」という気持ちで、
自分の内心をくすぐっている人が数多くいるのです。
「こんな病気をしたから、自分は不幸だなのだ」
あのとき、ああした環境だったために、こうなった」
「あれさえなけば」「こうであれば」
ということを、あれこれ言う人はいくらでもいます。
これを自己憐憫といいます。
「自分がかわいそうだ」という感情です。
これは、他人から愛を与えられないので、一生懸命、
自分で自分に肥料を与えているつもりでいるのですが、
残念ながら、この肥料には毒素がはいって、与えつづけると、
やがて草花は枯れてしまいます。
自己憐憫は、その人の心のまっすぐな波長を妨げるという意味において、
毒素となっているのです。
「自分がかわいそうだ」と思って自分を愛している人は、いつまでたっても、
豊か素晴らしくはなれません。
何かきっかを見いだしては、自分をかわいそうな立場に追いやり、
悲劇の主人公にまつり上げて、その傷口をなめている……こうした傾向のある人は
数多くいますが、そうした人たちは、「自己憐憫では決して幸せにはなれない」
ということに気がつき必要がありあます。
ザ・伝道月刊誌
大川隆法
2012年06月06日
「悲劇の主人公」からの脱却 ①




「日はまた昇る」という言葉は、いい古された言葉かもしれません。
しかし、この言葉は人生の真実であり、どのような苦難困難のときでも、
日はまた昇るのです。
苦難や困難にある人に、ぜひ実践していただきたいことがあります。
それは、自分の現在のあり方を、第三者の目で冷静に見てみるということです。
そして、「自分と同じような苦難や困難に陥った人が、かつていなかったかどうか」
と考えてみるのです。
人間は「自分の悩みはとてつもなく大きい」と思いがちですが、
たいていはそうでもないのです。
それは過去にも現在にもある話であり、似たような悩みや苦しみを持った人は、
ほかにもいる場合がほとんどなのです。
ザ・伝道月刊誌 スペシャルメッセージ
大川隆法