2012年06月08日
「悲劇の主人公」からの脱却 ②




病気でも、それ以外の問題でも、悪いほうにばかり考え、
不安なほうにばかり見ていく人がいます、
そうした方向は、どこかで断ち切らなければいけません。
「自分は憐れである。かわいそである」という気持ちで、
自分の内心をくすぐっている人が数多くいるのです。
「こんな病気をしたから、自分は不幸だなのだ」
あのとき、ああした環境だったために、こうなった」
「あれさえなけば」「こうであれば」
ということを、あれこれ言う人はいくらでもいます。
これを自己憐憫といいます。
「自分がかわいそうだ」という感情です。
これは、他人から愛を与えられないので、一生懸命、
自分で自分に肥料を与えているつもりでいるのですが、
残念ながら、この肥料には毒素がはいって、与えつづけると、
やがて草花は枯れてしまいます。
自己憐憫は、その人の心のまっすぐな波長を妨げるという意味において、
毒素となっているのです。
「自分がかわいそうだ」と思って自分を愛している人は、いつまでたっても、
豊か素晴らしくはなれません。
何かきっかを見いだしては、自分をかわいそうな立場に追いやり、
悲劇の主人公にまつり上げて、その傷口をなめている……こうした傾向のある人は
数多くいますが、そうした人たちは、「自己憐憫では決して幸せにはなれない」
ということに気がつき必要がありあます。
ザ・伝道月刊誌
大川隆法