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2012年09月10日

その人のそばに行くと・・

 
 




 

つらいとき、

悲しいとき、

人間は、

どうしても悲観的な言葉を

出しやすいものです。

しかし、ここに大きな

落とし穴があるということを

知らねばなりません。

笑顔というものが

顔を飾るように、

言葉というものは、

その人の人格を飾っていきます。

常々、悲観的な

言葉を出している人には、

その周りに、

なんとも言えない、

人を寄せつけない

雰囲気というものが

漂ってきます。

その人のそばに行くと

不幸になりそうな気がして、

人々が寄ってこなくなります。

したがって、

不幸なことは小さく、

幸福なことは

大きく見ていく努力が大事です。

では、

そのためには、

どうしたらよいでしょうか。

それは、

つらいとき、

苦しいときに、

あまり愚痴を

言わないようにすること。

言ってもしかたのないことは

言わないようにすることです。

そのようなときにこそ、

むしろ、

「何か幸福なことはないか。ラッキーなことはないか」

と探すことです。

そして、

もし、それがあったなら、

それをこそ

口に出して言うべきです。
 
 



『成功の法』
 第三章 成功生活の秘訣
 P93より
 
 




  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 20:10Comments(0)仏法真理

2012年09月09日

道端の花に・・

 
  







人生を生きていくための

一つの秘訣は、

「とにかく笑顔を維持する。努力してでも笑顔をつくっていく」

ということです。
 
笑顔をつくろうとする努力は、

決して、

「自分の内面をごまかそう」

というような

気持ちがあるわけではありません。

笑顔をつくることは、

仏教的には「顔施(がんせ)」

とも言われています。

笑顔は、

人に対する施しでもあります。

笑顔を持った人が

一人でも多く出ることが、

世の中がよくなっていくための

方法でもあるのです。

それは、ちょうど、

道端に咲いている花にも
 
たとえられましょうか。

「何ゆえに、道端に花が咲いているのか」

ということについて、

人間は、

あまり深く考えることはありません。

しかし、

道端の花に、

ふと、われを忘れて

「美しいな」

と感じる瞬間があるとしたならば、

「その花は、人間に愛を与えている」

と思って間違いないのです。

「花は、多くの人たちの喜びのために咲いている。花もまた、笑顔を与えている」

と考えてよいと思います。

花でさえ

笑顔を保つことに努力しているのです。

どうか、

「笑顔は努力に比例する」
 
という言葉を

胸に刻んで欲しいと思います。





『成功の法』
 第三章 成功生活の秘訣
 P90より
 
 
  
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 16:55Comments(0)仏法真理

2012年09月08日

ザリガニのように・・

 







二度、三度と

失敗の経験を

繰り返した人のなかには、

もはや勇気が枯渇して

出てこないように

思っている人もいるでしょう。

何度も挫折経験を

繰り返した人は、

逃げることのみを考えます。

尻のほうから逃げていくこと、

後ろに向かって

逃げていくことだけを考えるのです。

これは、

「ザリガニ型人生」

と言ってもよいでしょう。

ザリガニは、

人が来たり、

水のなかで魚が跳ねたり、

あるいは、

石ころを投げ込まれたりすると、

その音に反応して、

すぐ、二十センチか三十センチ、

後ろにサーッと下がります。

「敵は前にばかりいる」

と思って、

ザリガニのように、

いつも後ろに

逃げる傾向のある人は、

後ろに罠が

仕掛けられて場合には、

もはや逃れようがないのです。

「目の前に起きることが、自分を害することばかりである」

と考えるのは早計です。

そうではなくて、

勇気を持って

前に進むときに、

そこに道が

開けることもあるのです。

自分を守ることのみを考え、

後ろに下がることばかり

考えていては、

真に自分を

救うことにはならないのです。





『成功の法』
 第二章 成功の条件
 P75より

 
 




  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 21:43Comments(0)仏法真理

2012年09月08日

宝くじが当たる・・








「幸福になりたい」

と思うならば、

「自分は幸福になれる」

という自信を持つことです。

自信を持って、

まず、心の世界において、

想念の世界において、

成功者になってしまうことです。

心の世界において

成功者となった人の周りには、

成功の事物が集まってきます。

成功者が集まってきます。

成功の雰囲気も漂ってきます。

まるで磁石のように、

"砂鉄"を引きつけていくのです。

この意味において、

「自信を持つ」

ということなくしての

成功はありません。

自信を持たないままで、

たまたま、

宝くじが当たるがごとく、

成功運を引き当てるようなことが

あったとしても、

そういうものは、

やがて、

その人から去っていくでしょう。




『成功の法』
 第二章 成功の条件
 P67より

  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 16:42Comments(0)仏法真理

2012年09月07日

伴侶の欠点ばかり・・









自分が幸福になれるかどうかは、

まず「幸福になろう」

と決意しているかどうかに

かかわっています。

「自分は幸福になろう」

と決意したところに、

幸福というものは

表れてくるのです。

それにもかかわらず、

知らず知らずのうちに、

自分を不幸にしようと

してはいないでしょうか。

「不幸な自分」

というものを

心に描いていく傾向のある人、

毎日毎日、

自分の周りに起きる出来事、

あるいは、

自分に対して投げかけられる

他人の言葉のなかに、

不幸の種を探している人、

仕事において、

いつも他人の粗を探すことに

終始しているような人、

夫婦において、

伴侶の欠点ばかり

探しているような人、

こういう人は、

どうかもう一度、

原点に返っていただきたいのです。

すなわち、

「あなたは、幸福になりたいのか、なりたくないのか。それをはっきりさせなさい」

ということです。

もし、「不幸になりたい」

と言うなら、

それは自分の責任です。

自分の責任で、

そういう道を歩いていく以上、

決して不平不満を

もらすべきではありません。

それは他の人を害し、

不愉快にするだけなので、

決して不平や不満は

言ってはならないのです。





『成功の法』
 第二章 成功の条件
 P64より




  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 21:13Comments(0)仏法真理

2012年09月07日

醜い青虫が・・









「なぜ天国、地獄があるのだろうか」

「そうした世界があることを、この世に生きているときに、なぜ教えてもらえないのだろうか」

「なぜ肉体と霊があるのだろうか。この世でもあの世でも、霊であればいいではないか」

と考える人も多いでしょう。

肉体から霊への移行は、

葉の上をはっていた

醜い青虫が、

いつのまにかサナギになり、

やがてモンシロ蝶や

アゲハ蝶になるようなものです。

青虫がサナギになり、

やがて蝶になっていく姿は、

実は、人間の

転生輪廻の姿を教えんがために、

神が創ったものなのです。

何十本もの短い足を持ち、

体をくねらせながら

葉の上を歩き回り、

醜い顔をして

葉を食んでいたものが、

いつかしら羽を生やして

大空を飛び回る姿は、

人間の霊的進化を

暗示しているのです。

結局、そこには

神の慈悲が働いているのです。

蝶が蝶として、

最初から大空を

飛び回ってもいいのですが、

それ以前の段階で、

地の上をはうという

不自由な生活をすることで、

大空を飛ぶことがどれほど素晴らしいか、

その生きがいというものを、

神は人間に教えているのです。





『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P58より
 

 

   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 14:56Comments(0)仏法真理

2012年09月06日

"目隠し”された状態で・・

 







「永遠の生命などなく、この世限りの人生だ」

と思っているからこそ、

やりたい放題のことをし、

人を傷つけ蹴落としてでも

偉くなろうとするのです。

ところが、その結果、

地獄に落ち、

永遠の生命どころか、

永遠の苦しみのなかで、

のたうちまわることになるということを知れば、

どれだけ割りに合わないかを

知るに至るわけです。

この世で

一個よいことをすると、

あの世で

十個よいことをしたくらいの

価値があります。

この世は非常にむずかしい世界であり、

魂は"目隠し"をされた状態で

修行しているのですから、

そうした手探りの状態のなかで

天国的なる生活を展開することは、

あの世での修行の五倍十倍の

値打ちがあるのです。





『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P51より
 
 


 
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 23:18Comments(0)仏法真理

2012年09月06日

体が豚で顔が・・








あの世には、

昔話にでてくるような

さまざまな地獄があって

なかには、

身長が三、四メートルと大きい、

鬼のような霊人もいれば、

刃物を持って追いかけてくる者もいます。

色情地獄においては、

血の池のなかで

男女がのたうちまわっています。

また、

餓鬼地獄においては、

骨と皮ばかりの姿で、

「食べたい、食べたい」

と言って苦しんでいる人たちが

たくさんいます。

それから、

畜生道というところでは、

人間はもはや

人間の姿をしていません。

体が牛で顔が人間、

体が豚で顔が人間、

こうした姿のものもいます。

また大蛇となって、

地獄の地面をはっているものもいます。
 
こうした人たちは生前、

「心のなかで思ったことは、心の世界においてすでに実現している」

ということを知らず、

そのため、

「心のなかは外から見えないから、どのような思いを持っていてもかまわない」

と思って生きていたのです。





『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P43より 
 
 


   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 12:10Comments(0)仏法真理

2012年09月05日

恥ずかしくて、とても・・

 

 
 




肉体を持っていたとき、

その心が透き通しで、

何もかも見通されてしまったならば、

恥ずかしくて、

とても人前に出られないような

生き方をしていた人たちは、

あの世の世界、

霊の世界に還ると、

心のなかをすべて見られてしまい、

また、

霊の世界では

自分の思ったとおりの姿になる

ということを知って、

愕然とするのです。

地上に生きているときに、

人に対する妬みや

恨みを持って生きていると、

体が蛇に変わったりするならば、

人間はすぐに

自分の間違いに気づくでしょう。

ところが、

三次元の法則のなかで生きていると、

そうしたことがないために、

生前は自分の間違いを

知らないでいるのです。




『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P35より
 
 


 
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 23:22Comments(0)仏法真理

2012年09月05日

人の物を盗む・・

 


 
 
 

どのような生き方をすれば

天国に行き、

どのような生き方をすれば

地獄に行くのか--。
 
もっとも簡単な考え方では、

いわゆる戒律に照らして、

「罪」と「罪でないもの」

とを分け、

「罪の多いものは地獄に堕ち、罪の少ないものは天国に行くのだ」

としています。
 
ここ何千年かの人類の歴史のなかでは、

洋の東西や民族を問わず、

こうした考え方がありました。

有名なものとしては

モーセの十戒があります。

モーセ以前にも、

メソポタミア地方においては

「ハムラビ法典」がありました。

確かに、

物事の善悪を容易に分ける

という意味において、

戒律には

分かりやすい面があると思います。

典型的な戒律には

「人を殺すなかれ」

「人の物を盗むなかれ」

というものがあります。

こうした戒律も

一概には幼稚と決め付けることは

できないのであって、

そうしたもののなかにも

確かに真実が光っていると言えます。

しかし、

天国・地獄を

ほんとうに分けるものは、

そうした戒律ではないのです。 
 
結局、

七十年、八十年の人生を通して、

神の子、仏の子としての
 
本質に気づいた人は天国に還り、
 
神の子、仏の子としての本質に気づかず、
 
その芽を出さないままに

肉体人間としてこの世を去った人は、

地獄で厳しい試練を受けています。

これがほんとうの姿なのです。




『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P41より
 

 

 
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 14:16Comments(0)仏法真理

2012年09月04日

病人という種族は・・

 
 



 


この世の人生を終えて、

あの世に還ってきたときに、

地獄で再出発する人もいるわけですが、

この世の人々にしっかりと

知っておいてもらわなければいけないのは、

「地獄は天国と二分されるものではない」
 
ということです。

地獄というところは、

地上世界を三次元とするならば、

四次元以降の世界、

五次元、六次元、七次元、八次元、九次元

それ以上の高次元の世界を含むなかの、

ほんの一部なのです。
 
たとえば地上には

いろいろな人間がいますけれども、

病人という種族はいません。

病気をしている人が

一定の割合でいて、

そのために病院があるわけですが、

それと同じように、

あの世の霊のなかで

心を病んだ人たちが、

地獄というところで

修行をし、

リハビリテーションを受けているのです。

どうか、

そうした見方を大切にして

いただきたいと思います。

心、精神が病んでいる

病人ではあるけれども、

彼らは彼らなりに

地獄で何かをつかもうと

しているのです。
 
 



『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P35より
 
 

   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 22:03Comments(0)仏法真理

2012年09月04日

閻魔大王が・・

 



 


地上で

肉体中心の生活をして
 
霊的に目覚めていなかった者は、

反省の結果、

あの世の四次元世界にある
 
いわゆる地獄という世界に、

自らの選択と判断によって赴き、

そこでさらに

厳しい試練を受けることになります。

しかし、

霊的な生き方をしなかったとしても、

それを「過ちであった」

と素直に認め、

悔い改めたものは、

四次元の精霊界という、

調和された霊たちがいる

世界へと行くことになります。

これは、

いわゆる閻魔大王が裁くのかといえば、

そうではなく、

自分自身の良心、

善なる心、

神の子

仏の子として本姓が、

自らを裁くのです。

ただ、

魂の傾向性が凶暴な人になると、

そうした過程を経ることなく、

死ぬとすぐ

まっさかさまに

地獄へ行く場合もあります。

 


『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P27より
 
 

 
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 12:17Comments(0)仏法真理

2012年09月03日

収容所に連れていか・・

 
 

 




死後、

この世をしばらく徘徊していた霊たちも、

ほとんどの場合は、

先に亡くなった友人や両親、

あるいは守護霊などに導かれ、

やがては四次元にある

収容所に連れていかれます。

そして、

その収容所において、

自分が地上に生きていたときのことを

反省させられるのです。

そのときの反省の基準は、

主として、

「霊的な目から見ると、自分の人生はいかに間違っていたか」

ということです。

すなわち、

肉体中心の生き方について、

つくづく反省させられることになるのです。





『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P27より

 
 

 
  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 20:23Comments(0)仏法真理

2012年09月03日

小学校一年生と・・

 


 
 


ほとんどの人は、

死後、あの世の世界に来ると、

一様にショックを受け、

また、たいていは

狼狽するのですが、

そのうち、

あの世での生活に

だんだん慣れてきます。

そして自分は肉体がなくても

生きていけることに気がついてきます。

二十日、三十日と、

何も食べなくても死なないことや、

何も飲まなくても生きていられることに

驚きを感じるわけです。

やがては、

「地上の人びとに話しかけても、もはや相手には何も聞こえないのだ」

ということにも気がついてきます。

そこで、

「こうしたことを、いつまでもしてはいけない」

ということが分かってくるのです。

そして、

小学校一年生と同じように、

「新たな世界のなかで、自分はどう生きていかなければならないのか」

と、世界観と自己認識のあり方を

探求し始めるようになります。

 


『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P18より




   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 12:17Comments(0)仏法真理

2012年09月02日

火葬場で焼かれると・・





 



人間にとって、

「自分がどこから来て、どこへ去っていくのか」

ということは重大問題であり、

これが心の底から

離れることはないでしょう。

もし、唯物論者の言うがごとく、

母親のお腹のなかに

生命がいきなり発生して、

六十年、七十年を生き、

やがて火葬場で焼かれると、

人生が

それで終わりになってしまうものならば、
 
それなりの考えを持って

生きていかねばならないでしょう。

ただ、

人生は一回きりであり、

人間は

短い線香花火のような存在だとするならば、

人生には重大な意義も目的も

見出せないのではないのでしょうか

わずか数十年の人生であるならば、

「自分が楽しまなければ損だ」

という考えになってしまっても、

おかしくはないのかもしれません。

ところが、

宗教家たちが言うように、

「あの世、実在界という世界があり、魂はあの世からこの世に生まれ変わってきて、何十年かの人生を生きる。そして、この地上を卒業したあとも、実在界において、さらなる魂の向上を目指している」

というのが真実ならば、

とるべき考え方は違ってきます。

こうした二つの定点から

人生を見た場合、

どちらが人間の進化や向上に

役立つかといえば、

結論は明らかでしょう。

永遠の進化を目指すという

観点に立ったときに、

人間は

はるかに向上していくということです。

 
 
『永遠の法』
 第一章 四次元の世界
 P18より



   

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 23:10Comments(0)仏法真理

2012年09月02日

自殺の名所に・・

 








気の毒なことですが、

「魂としての生活がある」

という基本的なことを

知らないがために、

多くの苦しみが

拡大再生産されています。

自分自身が

地獄に落ちて苦しむだけでなく、

次の地獄をつくるために、

この世に出てきて

悪さをするのです。

たとえば、

自殺した人の霊は

成仏できないことが多く、

自分が自殺した場所にとどまって、

自殺を繰り返しています。

そして、

その磁場に他の人が来ると、

その人にフワッと憑いて

一緒に自殺します。

そうすると

その人も成仏できず、

そこに元からいる

自殺霊の仲間になることがあります。

そして、

その場所では

自殺が何度も繰り返し

起きるようになるわけです。

このように、

自殺の名所には

成仏してない自殺者の霊がいて、

そこを訪れた人が、

そういう霊に

支配されることがあるのです。

死ねば苦しみが

なくなると思ってはいけません。

この世とあの世は、

実は一貫した流れがあるのです。






『復活の法』
 第四章 因果応報
 P278より





  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 13:33Comments(0)仏法真理

2012年09月01日

交通事故に・・

 







交通事故に遭って死んだあと、

いつまでたっても、

「痛い、痛い」と言って、

何十年も転げ回って

苦しんでいる人がたくさんいます。

肉体はすでにないのに、

肉体以外の自分を想像できないため、

その苦しみから

逃れることができないでいるのです。

この世に生きているときに、

魂としての生活のことを

知っていた人は、

交通事故に遭って

死んだとしても、

光の天使がすぐに救いに来て、

あっという間に

天上界へ抜けていきます。

しかし、

霊的な知識、思想がない人は

「死んだら終わりなのに、自分の意識はまだある。意識がある以上、自分は生きている」

と思い、

何十年も、

ずうっと苦しんでいます。





『復活の法』
 第四章 因果応報
 P277より




  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 20:42Comments(0)仏法真理

2012年09月01日

怖いものに追いかけられ・・

 






肉体のなかには、

肉体とほぼ同じ形をした、

魂というものが入っています。

魂は、

ぴったりと肉体に入ったままかというと、

そうでもなく、

夜の睡眠時には、

ときどき肉体から離れています。

夢のなかでは、

ときどき、

この世の出来事ではなく、

空を飛ぶ夢、

怖いものに追いかけられる夢など、

この世のものとは違った

異質な世界の出来事を

天然色で見ることがあります。

そういう場合、

魂は、

たいてい霊界に行っているのです。

生きているうちから

練習しておかないと、

死んだときに、

あの世への移行が難しくなるので、

ときどき霊界へ行き、

あの世へ還る練習をしています。

それで、

一日八時間程度の睡眠を取るのです。




『霊界散歩』
 第一章 あの世への旅立ち
 P72より




  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 10:46Comments(0)仏法真理

2012年08月31日

愛する人と別れる・・

 







この世には、

「生」「老」「病」「死」

の四苦の苦しみに加えて、

嫌な人と会う苦しみ(怨憎会苦)

愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)

求めても得られない苦しみ(求不得苦)

肉体煩悩が燃え盛って、思うようにならない苦しみ(五陰盛苦)

があります。

こういう四苦八苦の苦しみから、

この世の人間は、

そう簡単には逃れられません。

この苦しみから逃れるためには、

霊的な人生観を持ち、

実相の世界の視点から、

この世を捉えなおすことが

きわめて大事なのです。

仏教は

「この世は苦しみの世界である」

ということを説いていますが、

最終的には、

「執着を絶て」

ということを繰り返し、

いろいろなかたちで説いています。

これは実際に、

この世からあの世へ、

異次元へと移っていく際に

必要なことなのです。

高次元世界に還るためには、

この世的な執着を

捨てなければならないのです。





『霊界散歩』
 第一章 あの世への旅立ち
 P39より





  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 22:03Comments(0)仏法真理

2012年08月31日

海外旅行の・・

 
 






仏教は、

「諸行は無常である」

「この世は仮の世である」

と繰り返し説いています。

それはどういう意味かというと、

「本来の世界は、あの世の世界であり、この世には、海外旅行のように、一時期、来ているだけなのだ。赤ちゃんとして生まれて、人生修行をし、いろいろな人と出会い、さまざまな経験をしながら、新しい人生を築き、新しい個性を身につけて、あの世へ還る。そういう修行をするために、この世に来ているのだ」

ということです。

この認識を、

きちんと持っていただければよいのですが、

学校の教科書や参考書には、

どれを読んでも、

このようなことを書いてあるものはありません。

そのため、

「古い時代の人の思想だ」

「迷信だ」

と思っている人のほうが

多いのではないでしょうか。

しかし、

厳しいことに、

死後には、

「その人の、この世における思いと行い、考えたことと行動したことが、真理価値に照らしてどうであるか」

ということが的確に判定されます。




『霊界散歩』
 第一章 あの世への旅立ち
 P33より





  

Posted by 幸福の科学奄美拠点 at 17:02Comments(0)仏法真理